東芝
東実執行役専務
(最高技術責任者)
新春特別企画として、東芝の最高技術責任者(CTO)、東実執行役専務に東芝の目指すモノづくりと求める人材像を聞いた。
72年に東芝に入社するまで、大学院修士課程では物性物理の実験をしていた。担当教授は研究テーマの選択を学生に任せたから、何が独創的か、テーマを探し出すために1年2ヶ月を費やした事を憶えている。悩んだ末の着想は、DNAやDNAから作られる生体高分子の特別な分子構成に関して、分子生物学的ではなく、分子物性的解釈ができないかということだった。
テーマを定め、分光器を組立て直してDNAの電子物性の研究に没頭したのが70年ごろ。近年になってDNA、ヒトゲノムなどの解明が進みDNAチップなどが開発されるのを見るにつけ、私の研究はちょっと早すぎたか、という感想を抱く。
導電性高分子によって筑波大学名誉教授の白川英樹先生はノーベル賞を受賞したが、私も学生の当時、高分子にどうやったら導電性を持たせられるかということに興味を持っていた。着想が似ていたから、先生の受賞は他人事のようには思えず嬉しかった。
半導体との出会い
ただし東芝に入ると企業内にその領域の仕事はなかったが、光物性を研究していた経緯から照明関係の研究部署への配属が予め決まっていた。ところが、日本でゲルマニウムやシリコンの半導体結晶の生みの親と言われ、研究所の配属面接で面接担当だった犬塚英夫主幹(当時)が私の顔を見るなり「君は照明ではなく、これから立ち上げる半導体をやりなさい」とひと言。
最初のプロジェクトとして、半導体のデバイスのなかでも、GE、Westinghouse、RCA、Siemens、日立製作所、ソニー、富士電機などが開発に挑みながらどこも成功していなかったゲートターンオフサイリスタに取り組むことになった。このデバイスは、サイリスタではあるがゲート信号でオンオフが出来る半導体素子だ。サイリスタは扱う電力が大きく、耐圧4500V、電流は瞬時的には2400Aという規模の大電流をゆったりスイッチする。そのスイッチをゲートで実行できれば、コンパクト化とスイッチングの高速化が可能になる。しかし、シリコンウェーハ1枚がそのまま1個のデバイスになるという構造から欠陥が許されず「シリコン結晶技術が成熟するまで世の中に出ないだろう」と言われていた。当時東芝は小型しか手掛けておらず周回遅れで大型化開発に向かう状況だった。リスクが高いこともあって、新人である私ともう1人の2人だけのチームに与えられた仕事だった。
幸いなことに半導体結晶技術が進展したことと、ビギナーズラック(初心者の幸運)も手伝って、既成概念や論文で紹介されていた手法とは全く違う手法で取り組んで開発に成功した。最初に動いたのは100Aのスイッチングで600V耐圧の素子だった。それを世界で発表すると、世界中で開発を見直す気運が高まった。東芝でも2500Vで600Aのゲートターンオフサイリスタ開発に進展し、地下鉄のエアコン制御などに導入されていった。さらにその数年後に、最終ターゲットの4500Vで2400Aの素子開発に成功し、JRの「のぞみ」に搭載された。
成功する条件
成功したポイントのひとつは運だ。たまたまプロジェクトが立ち上がる時に出くわした。運は非常に大事だ。それから、誰もやっていない領域の仕事をするときには、むしろ既成概念がないことのほうが有利で、斬新な気持ちで取り組むことが大事。溢れるほどの知識は阻害要因にもなる。さらに細かいことまで指導せず、燃えて取り組んでいる研究者の自主性を尊重して任せきるリーダーの存在や研究室、職場の風土が有難かった。
私の場合、入社してそれほど経たないうちに成果が出たこともあり、ほどなくプロジェクトに携わる人数が20人を超える状況になった。私は相変わらず2〜3人のグループを維持したが、あとから入ってきた研究者は10人ずつのグループとなり、合計3つのグループを構成した。開発のボトルネック、課題が生じると、この3グループが競い合って取り組み、内部に競争があったことがプロジェクトを成功に導くことに寄与したと考えている。
同様に、内部の競争環境が成果を生んだ例がDRAMだった。東芝はかなり出遅れたにもかかわらず、1MDRAMでは世界の覇権を取った。その時にCMOSとNMOS方式のどちらが主導権を取るかという開発競争が、東芝内部にあった。CMOSチームもNMOSチームも懸命に競った。この開発競争ではどちらかが勝ち、どちらかが負ける。引き分けはない。他社との競争では、一見競っているようだが、実際は両方ともあまり情報の開示がないから、どこで競争しているか分からないことが多い。これに対し、社内での競争は相手と同じグラウンドの上で競う分、刺激が強い。この競争環境はその時代のやり方としては良かったと思う。
ムーアの法則はもともと半導体に関するものだが、実際には通信のスピード、コンピュータの処理時間、システムLSIのゲート数、ハードディスクのメモリ容量などにも年次推移の傾向が現れる。必ずしも半導体の3年で4倍という傾向でなくともそれぞれの技術で年次推移のトレンドが読めるところにこそムーアの法則の本質があるだろう。ムーアの法則によるひとつの流れは研究の大きな指針となる。東芝はそのような指針に添った開発では強い。NANDフラッシュメモリの次世代GB数、ハードディスクの次世代GB数など、次が分かっている領域では非常な強みを発揮する。
しかし、新しい技術を開発したあとで、これをどう事業化するかでは、「Death Valley」があり「ダーウィンの海」があり、事業化への大きな関門が待ち構えていることを常に肝に銘じなくてはならない。

マーケットとの対話が突破口に
今、才能のある研究者に求められているのは、マーケットとの対話、Communication with Customersだ。
かな漢字変換による日本語ワープロを開発してこのほど文化功労者を授与された森健一さん(東京理科大学教授、元東芝常務)の話は示唆に富む。まず日本語ワープロに対する新聞業界などからの社会的ニーズがあった。新聞制作はその当時、専門職人が鉛の活字を拾い、文書を作り印刷機にかけていた。業界では英語のタイプライタのように日本語のタイプライタが欲しい、というニーズは強かったが、日本語ではアルファベット26文字と比較すればはるかに多数の文字が必要になる。本当に文字多数を揃えたシステムを作ろうという考え方も一方であった。これに対して森さんたちは、それは実用化しないだろうと考えた。自らの発想がある程度まとまると、新聞社などに持ち込み、「こんなアイデアではどうか」と聞いて回った。すると「まず作ってみなさい」ということになり、京都大学に研究者を派遣して、文節変換の仕組みなどを見極めるために日本語の勉強をさせた。開発成果は最初、大型コンピュータ並みのシステムになったが、それから何度も新聞社の人との対話を重ね、ブラシュアップをしてついに製品化にこぎつけた。ひとたび製品化されると需要層は一般の人にまで拡大していった。
また東芝関西研究所(当時)の赤嶺正巳さんは、独自の方法で音声合成を開発して市村賞などを受賞している。従来型の音声合成は辞書が大きかったのに対し、彼の考え出した方式は辞書サイズが小さくて済む方式だった。その方式を試作しカーナビメーカー、自動車メーカーに持ち込み評価を聞き、問題点を指摘されると改良を重ねた。この結果多くのカーナビに組み込まれ、一時はカーナビの80%を超える搭載率に達した。赤嶺さんがひとりではじめた仕事だったが大きな成果を生んだ。
このような開発には「Death Valley」がない。それは最初からカスタマと対話しているからだ。対話を通じて技術を改良し、あるいは新しいものを生み出したりすることで製品価値を追加していく。技術はあるがどこに使い道を探そうか、という開発と、最初からひとつのアプリケーションを見込んで、あるいは思い込んで、想定されるユーザーの声を採り入れた開発とは異なる。開発構想段階からのカスタマとのコミュニケーションは、イノベーションを生む一番大きな力ではないかと思う。
東芝の目指すバリュー・イノベーションは新しい価値、新しい文化を生み出す力だ。新しい暮らし、文化を創り出す技術をひとつでも多く生み出したいという発想がある。
見えない最終製品
企業の研究者ならば、その開発技術が使われる最終製品を夢見て開発してきたはずだ。しかし、最終形態が最初から見えるとは限らない。技術も材料も伴わない頃の液晶技術の開発者にとって、最初から大型のフラット・パネル・ディスプレイが見えていたとは想像しにくい。液晶技術はいろいろなところでいろいろな人が注力し、その他の技術と統合され、大型液晶ディスプレイにつながっていった。
NANDフラッシュメモリも、開発時に最終ターゲットとしていたのはコンピュータの不揮発性メモリを想定していた。それがSDカードになり、カメラ付の携帯電話端末に多用され、アップルのiPODのような携帯音楽端末に形を変えて展開した。最初に狙った製品と市場のなかでブレイクするものは、新しい価値を生むバリュー・イノベーションにおいては必ずしも一致していない。それゆえに開発者たちの執念が大事だ。コンピュータの不揮発性メモリならばハードディスクがあるからという声に素直に従って開発を断念していたら、いまのNANDフラッシュのブレイクはなかった。
研究者には、運が大事。またある種社内の否定的な意見に対して鈍感であることも成功の要素となる。「名伯楽」、つまり研究者の能力を引き出す優れたリーダーも、競争環境も必要だろう。さらに、競争に勝った暁にはこれを処遇し、開発技術を大事にする風土も絶対に必要だ。そのためにいくつか処遇制度を整えている。
最近感じているのは、異業種、異分野、異文化―言葉を換えれば、グローバル化、産学連携といった領域の人々、研究機関との接点、コラボレーション、フュージョンが必要だ。森さんと新聞社との付き合い、赤嶺さんのカーナビメーカー訪問などのように、異業種、異分野との意見の交換が自分のアイデアを研ぎ澄ませて行く。あるいは自分のアイデアにまだ欠けていたものを生み出す機会を与える。
これらは、研究者が開発のレールを敷くボトムアップ型といえるが、これとは異なり、経営者がレールを敷く企業間連携はトップデシジョンでほとんどが決まる。東芝とIBM、ソニーの連携による半導体Cellの開発では、IBMがソリューションの中のコアとなる高性能サーバを追求し、ソニーはゲームの主導権を追及し、東芝は半導体技術を最大限に伸ばせるチップ開発を追及することで、お互いがそれぞれのビジネスの中で将来が描け、開発技術が他にも波及できる、といった相乗効果を狙ったものだ。半導体技術者で高性能サーバの要件が分かる人も必要ではあるが、通常は半導体とサーバとの接点まで見通しを持てば開発は進む。他方、Cellのアプリケーション展開を展望しようとすると、さらに幅広い見識が必要になる。

開発のインセンティブ
さて、東芝の研究者に対するインセンティブについて1、2例を挙げると、まず発明者に対する実施保証制度を見直した。すでに実施保証料では1年間に3千万円を超える研究者も出てきている。年間100万円以上を受け取る人も100人弱に達する。発明に対する企業の評価を高くしてきた。また、専門職として非常に力を持つ人を役員待遇とする制度では、すでに3人を処遇している実績がある。
東芝創業130周年を記念して05年に、創始者田中久重のあくなき情熱、好奇心を継承し新しい事業を起す人を顕彰する「田中久重賞」を設けたが、その第一号に、当社のデジタルメディア機器の部門においてHDDとDVDドライブを複合したRDレコーダを考え付いた片岡秀夫さんを選んだ。彼は実は技術屋ではなく文系出身で商品企画の担当だ。これからのイノベーションは、技術屋が生み出すとは限らない。片岡さんは自分で開発した装置を家に持ち帰り、夜中遅くまでテストするなど、四六時中自分の取り組んでいるテーマのことを考えている。こういう人と技術屋が上手く組めれば、バリュー・イノベーションが進むと考えている。技術マネジメントが心掛けなくてはいけないことは、その接点の場を提供していくことだろう。
研究者に対する処遇も変えた。従来は積分型、すなわちAさんには10年働いたから10年分の価値を認め、同じ期間働いたが、1年間子育てのために休んだBさんは9年分、という評価が定着していた。今は、あくまで現在の能力を問う時代だ。女性役職者の積極登用も進めている。東芝全体の技術者の採用枠も拡大し、06年度春の560人採用に対して、07年度春には1,070人を採用する計画だ。
技術の継承は難しい問題だ。人に固有な技術というものもある。不良事例のデータベース化やソリューションを突き止めるための検索エンジンなど技術伝承のためのツールの整備、定年延長の検討を含む人事制度、処遇制度の改定など着手できるところから実施している。
長所を磨いて競争に臨む
東芝の研究者、技術者は難関を突破してきた優秀な人が多い。欠点があるとその修復、克服に優れた能力を発揮できる。しかしこれからのグローバルな競争の中で、日本が、そして東芝がイノベーションをリードしていくためには、欠点を補うことより、自分の長所を徹底的に伸ばすことがむしろ重要になる。あのGoogleが成功した要因は、数学者、そして時にはハッカーなども含め何万人の中から極めて卓越した能力を持つ人材を集め、極めて高度な技術集団を作り上げたことだ。
「自分の長所を早く探し出して、妥協せずにその長所を最大限に伸ばすこと」。これが私の言いたいことであり、それでこそ、世界的な競合環境のなかで個人、事業、企業、最終的には国家が勝てるのだと思う。個人の能力を最大限に発揮する集団でなければ勝っていけない時代だ。そういう集団だからこそその中に競争原理がはたらく。その競争原理なくして世界のトップには立てない。
(聞き手:甲斐真一郎)
プロフィール:
アズマ・マコト
1972年東芝入社。94年材料・デバイス研究所長。以後、記憶情報メディア事業本部統括技師長、パーソナル情報機器事業本部統括技師長兼務を歴任し、99年研究開発センター長。2000年常務、03年執行役上席常務(経営変革推進本部副本部長)から、05年執行役専務(技術・知的財産グループ担当)。
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