モノづくりと人材・技術経営

未踏の領域に躊躇するな!
「チームアルバック」で開発を加速

[2007年12月号]

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アルバック
砂賀芳雄専務取締役FPD事業本部長

スナガ・ヨシオ  1972年日本真空技術(現アルバック)に入社し真空蒸着装置の開発・設計からスタート。78年東京営業部で真空溶解炉等の営業担当。86年アルバックBTU出向。開発部長として半導体CVD装置、拡散炉の開発を統括。88年帰任し真空蒸着装置の開発設計検査を管理。97年電子機器事業部CMD開発部長として液晶用プラズマCVD装置開発を統括。2000年取締役。03年FPD事業本部長(現在)、常務取締役。06年から専務取締役。

 私自身は1972年に入社した。大学で機械工学を専攻していたから、蒸着装置の設計部門に配属された。当時の主力商品は、フィルムコンデンサやパッケージング材料用にプラスチックのフィルム上にアルミニウムを蒸着する装置で、その設計に従事した。

 当時開発面では、フィルムコンデンサのフィルムの薄さを競う状況で、従来のフィルム厚が3μm〜6μmのところを、1.5μm厚に挑戦したのを憶えている。今から考えると主力商品の設計を、入社1年目の若手によく任せたものだと思う。

 振り返るとその頃は時間的余裕があった。当時、真空巻取蒸着装置は1台数億円する高額商品で、年に何台も出るという商品ではなかった。1台設計してそのモノづくりに半年かけ、その後設計者自らが現地でインストールし評価する、ということが許される時代だった。自分で装置を立ち上げるから、例えば工具が入りようのないところのボルト付けなど設計や組み付け上の失敗を体で憶えていった。

 当時は真空技術がまだ特殊で、真空というだけでビジネスになった。その反面、市場規模もまだ限られており、顧客の要望に応じたカスタマイズ商品が主流だった。真空蒸着装置の設計には6年間携わった。

 その後、顧客のニーズを吸い上げるために、若い技術者や設計者が営業の第一線に配置された。それで私も東京営業部に6年間所属した。ただし当時は営業部所属といっても境界が緩く、6年のうち延べ4年間は出向扱いで工場に戻ることになる。

顧客が絶句
 ある時5トンの真空誘導溶解炉を某大手鉄鋼メーカーから受注した。この受注まで私は営業担当として動いていた。溶解炉として5トンはそれほど大きなものではないが高額で技術的にも難度があり、顧客はその溶解炉を研究設備として求めていた。弊社の技術者やトップマネジメントも含めた打合せを重ね、商談がまとまって、さあこれから設計を具体的に詰めていくという段階になった。顧客である研究所長が弊社の事業部長に「どのように進めましょうか」と話を切り出したときに、私の上司が私をチョッと見て「明日から砂賀に設計させますから」と言い切った。顧客は、今まで営業で訪ねて来ていた担当が突然明日から設計する、という事態が飲み込めず、一瞬絶句されたのを憶えている。

 それを機に出向で2年ほど工場に戻り設計業務に携わったが、引き続き顧客との打合せをする機会があり、訪問すると「砂賀さん、今日はどっちですか。営業ですか設計ですか」とからかわれたりした。

 以後も幅広い商品に関わることになり、産業機器事業部(当時は第1事業部)の商品のほとんどを、営業、設計、技術のいずれかの立場で関与してきた。いろんな経験をさせてもらったという有難い思いがある。

発令は階段ですれ違いざま
 事業規模が段々拡張していく中で、電子部品部門の商品が伸びていった。一方で半導体製造装置も伸びていた。本来は半導体関連の開発をする部隊が、目先の電子部品の商品開発に追われる状況にもなった。そこで、その両者をはっきり分けようということになり、半導体や産業機器部門からも人を取り込んで電子部品部門を専門とする第5事業部が出来た。そのときに私は人が抜けた第1事業部に戻され、技術課長としてイオンプレーティング装置や真空熱処理炉などを手掛けることになった。

 ところが組織変動の折に起りがちな問題がここに生じた。新組織ができる一方で、既存の商品、既存の取引関係の延長は旧部隊に残る。その大混乱の中に戻ってきたから、その後1年余りは週に3日は会社に寝泊りするほど業務に追われた。

 これが一段落した頃に、子会社アルバックBTUに出向を命じられた。上司から階段のすれ違いざまに発令され、筑波にある同社で2年間働いた。米BTUインターナショナルと合弁で拡散炉や半導体用化学気相成長(CVD)装置を作ることを業務として設立した会社だったが、米仕様のままでは日本で受け入れられず、技術的にも課題を抱えていた。そこで私は初めて半導体製造装置関連の仕事に手を染めた。日本ではタテ型の半導体用CVD装置、拡散炉が登場してきた時期で、他方、米BTUではヨコ型炉で大きなシェアを持っていたために、タテ型炉の開発が全くできていなかった。

 そこでタテ型炉を日本で新たに開発した。といっても単なるタテ型炉はすでに東京エレクトロン、国際電気が持っていたから、ロードロック式タテ型炉を半導体で始めて作った。当時冶金関係では生産効率を上げ、雰囲気を遮断するのに有効なロードロック付が当たり前になっていたが、これを半導体製造の中に持ち込んだ。

 それから帰任して1年半、再び真空巻取蒸着装置の技術課長を務めていたが、他方アルバックBTUでは事業継続が難しくなり、合弁を解消することになった。八戸にあるアルバック東北に技術を取り込んで事業集約することとなり、アルバックBTUの事業清算と新チームの立ち上げのために足掛け3年間赴任した。アルバック社史のなかで、会社を消滅させたというのはその1社だけだから、貴重な経験をしたと思っている。

 この東北赴任の時期に液晶ディスプレイ関連の事業が急成長した。初期にはアルバックはスパッタリング装置、エッチング装置、プラズマCVD装置をすべて手掛けたが、顧客からの要求サイクルが早く回るようになり、スパッタリング装置に特化して開発を進めた時期がある。しかし顧客の要求なり将来性なりをみると、プラズマCVD装置をモノにする必要に迫られた。そこで呼び戻されて液晶ディスプレイ用プラズマCVD装置開発を統括することになった。これが私のフラットパネルディスプレイ(FPD)業界に関わるきっかけとなり、それ以降、約10年を事業部長、事業本部長という形でFPD向けの開発と商品販売に携わってきた。

部署を回す
 ツールが専門化してきたこともあり、今は仕事が分化している。設計者が図面を引いた商品を現場に自らインストールして検証するといったことはもはやできなくなっており、設計は設計、技術は技術、現場は現場の役割分担が定着している。ところが、ひとつの商品を産み出す、あるいは新しい何かを作ろうとすると、幅広い知識が要件となる。特に商品開発の過程では、現場の一番の悩みや現場をどうしたらいいかという方針が現場を知らずには実感として得心できないことも多い。他方、商品のサイクルが短くなり、開発設計に携わる人が忙しくてあちこち見て回る時間的余裕もない。この結果、人を育てることがますます難しくなってきている。私が事業部長だったときに、「部署を回すしかない」と思い、二つのサークルを作ろうとした。ひとつは、顧客と接する意味で共通項がある《技術—検査—営業》のサークル。もうひとつは、モノづくりで共通項がある《設計—製造—生産管理》のサークル。この2つのサークルを何年かごとにそれぞれローテーションしていく。さらに、例えば技術と設計、あるいは検査と製造の間で2つのサークルをクロスする相互乗り入れも可能にする仕組みを考えた。

 ところが、現場の長は自部門で育ってきた人間を放したがらず、抵抗もあった。少しずつ入れ替える試みを続け、およそ10年を経て、部門の長にもローテーションの発想への理解がようやく出てきたようだ。

主力商品は変遷する
 1952年に創業したアルバックはもともとベンチャーでスタートしたので、主力商品が歴史的に変遷している。当初は米国製真空装置の輸入販売からスタートしたが、55年ごろから商品の国産化を始めた。最初に主力商品になったのは特殊鋼やチタンなど真空中でなければ溶解、精錬できない非鉄金属の溶解炉や熱処理炉だった。さらに化学分野で、空気を遮断する雰囲気を作る蒸留の工程も主力商品となった。オイルショック後は自動車を軽量化するために銅製の熱交換器をアルミ製にしようとするニーズに応えたアルミのロウ付けがヒットし、あるいはステンレスで銅箔をロウ材にしたロウ付けがヒットした。その頃アルバックの売上げの約半分は自動車関連の装置が占めた。

 70年代後半から80年代に半導体市場が伸びたときに、真空技術の全方位開発を指向していたアルバックは、半導体製造に絞ったアプライド・マテリアルズや東京エレクトロンの急速な伸びに対し成長の勢いでは出遅れた。反面、真空を基礎とした幅広い分野を開発する体制は維持できた。

 半導体の技術開発を展開するなかで、パシベーション膜にプラズマCVDを使えないかという発想の開発を行なった。しかし当時まだ半導体にプラズマCVDを使うという土壌がなく、商品としては売れなかった。しかしそれは太陽電池に使える、という話があって、太陽電池製造用のプラズマCVD装置を開発した。その74年頃から80年当時の開発成果が今違った形で芽吹いている。

 さらに液晶分野が花開いてきた。当時研究所所長で常務だった中村久三会長が「どの部門かで世界一になりたい」という思いを強くし、その思いを液晶ディスプレイ製造の開発に傾注。それから数年して95年には韓国で、98年には台湾で液晶ディスプレイの製造が本格的に立ち上がった。社長になっていた中村は液晶分野を全部取るという強い決意を示し、当時事業部長だった私は駆け回ったが、台湾の全社でアルバックのスパッタリング装置を採用いただいた。その延長上に今やアルバックの売上げの約半分をFPD分野が占めるまでに至った。

ポストFPDの成長エンジン
 装置メーカーは微分産業といわれる。すなわち、商品が開発され伸びていく過程では装置需要が大きくなるが、行き渡って大量に商品が出回るときには装置の市場はなくなる。FPDは今後増えるが、顧客の製造設備は一巡し、これから数年の需要はあっても今の拡大基調ではなくなる。そこでアルバックはFPDの次の成長エンジンとして、商品ではデジタル家電と環境・エネルギー領域、地域では中国でのトップシェア、事業では装置販売だけでなく材料供給やアフターサービスとOEM生産への拡充、の4つの方針を見据えている。

 FPD部隊でいえば、大判ガラスを扱う技術や成膜技術をベースにエネルギー領域では太陽電池へと展開する。今までは太陽電池製造装置を単品で販売してきたが、今後世界展開するために全ラインをターンキーで供給していこうとしている。

 ところで、アルバックはベンチャーのDNAを継承して、開発1号機は売れるが、2号機以降は他のメーカーに持っていかれるようなところがあった。また半導体分野が伸びだした頃から、装置への要求が多少変ってきた。それまでは、装置は特殊な分野で特殊な装置として使われてきた。この結果、コストや信頼性を議論する以前に性能を出せるかが主眼だった。ところが、半導体のように量産に真空装置が使われる工程では、装置の信頼性、コスト、メンテナンス性などが問題になってきた。

 そこで新たな経営基本方針として5項目を掲げた。1番目に顧客満足の増進、2番目に生産技術の革新、3番目に独創的な商品開発、4番目に自由闊達な組織、5番目に企業価値の向上だ。それまでのアルバックの文化はこれと逆で、1、2番目には必ず独創的な商品開発があり、並んで顧客の満足があった。これを転換し、信頼性とコストを意識した設計開発に注力する生産技術重視の方向を打ち出したことになる。今、商品開発のキーワードは、標準化であり、信頼性であり、コストダウンだ。この生産改革活動を副社長、生産本部長の立場で具体的にリードしてきたのが現在の諏訪秀則社長だ。

 ウエーハサイズで決まる半導体装置の標準とは異なり、ガラスを扱うフラットパネルでは標準化に様々な困難があった。特にG3世代、G4世代などおおよそのサイズ枠があっても、個々のガラスの要求サイズは顧客ごとに千差万別の状況だ。特にG3.5世代では縦横5mm幅で顧客の要求がてんで異なっていた。装置はそれぞれの要求サイズに応じて設計されるから、ドンガラだけはあるピッチで決め付けるとしても、中身の標準化には限界がある。また受注生産的な要素を多分に残す結果、作り溜めができないからコスト低減にも限界がある。

 G4世代では本格的に家庭用テレビを見据えたプロジェクトが各社で進行した結果、装置に対する信頼性の要求度が格段に厳しくなった。アルバックではG4対応スパッタリング装置を開発したときに、テストで2万枚の実基板を流した。基板を真空中で受け取るとそれを垂直に立ててスパッタで膜付けするプラテン機構があるが、2万枚を用いてこのプラテンの角度のブレを評価した。この成果は顧客先で予防保全を可能にするデータとして活用され、評価を高めた。

 テレビは各社戦略が異なるが、太陽電池では、発電量が見やすければ便利だ。そこでパネル1枚で100W出力を想定し、G5に近いサイズであらかじめ基板サイズを標準化し顧客に提案している。我々の部隊としては初めて完全標準化ができた装置となった。これによりロット生産が可能となり、コスト低減とプロセス信頼性の確認で成果をあげている。

次世代領域へのこだわり
 2001年に日本真空技術からアルバック(ULVAC)に社名を変更したときに、従来の真空技術を基盤とする方針から、真空技術と次世代領域を基盤とする方針へと発想を転換した。それ以降取り組んでいることに、真空を使わないバイオ技術やインクジェット技術の開発がある。液晶ディスプレイの価格低下にともなうプロセス見直しのひとつの解がインクジェットの印刷技術で得られると考えている。有機EL製造では20年来の研究を積んでおり、コストダウンのための製法にどういう商品、プロセスを提供できるかの開発を進めている。

 事業化には、ある踏ん切りが必要だが、商品の開発にはこだわりが必要だ。30年来開発を続けている技術商品にナノパーティクルがある。銅、銀、金などの超微粒子を作って例えばインクジェットで描画すれば、スパッタ、フォトリソ、エッチング、といった工程抜きにいきなり配線膜が形成できるというメリットがある。かつては完全ドライな状態でガス状で金属を蒸発させ、パーティクル状態でいきなり描こうとした。これは可能だが片方で蒸発させながらロスタイム抜きという条件では使い勝手が悪かった。今はナノパーティクルを沈殿させず2カ月から3カ月間、液中に分散させる材料ができた。その超微粒子ペースト材料とインクジェット装置を使えば配線の直接描画ができる。

 真空ばかりやってきた技術者とは違う人が必要になってきた。例えば、レーザーを研究するためにはレンズ設計抜きにはできないから光学系の技術者が必要だ。それを信頼性やコストの面からなるべく他社に任せたくないから、自分たちでやろうと堅く決めている。同様に有機ELには高分子材料を専攻してきた人、インクジェット開発では例えばピエゾ素子やMEMS、X-Yテーブルを開発するなどの真空屋とは違う経験を持った人たちの力が必要になる。

 また太陽電池製造をターンキーで供給するとなると、工程間の連結、工場内の生産性効率を測り、装置レベルでなくファクトリレベルで生産や機器間のバランスをとらえる人も必要になった。今後マテハン関係の一括受託にも積極的に取り組む方針だ。

 技術者育成に課題もある。標準化を進めると技術者を育てにくくなる。顧客の要求や市場の動きには、従来全くないものを必要とすることもあるが、その開発にはまた違った能力が必要になる。時間をかけて部署を回して人材を育成する一方で、普通のビジネスラインとは別枠の、次世代の商品を生み出す組織、少数部隊を作る必要があるように思う。これは将来的な課題だ。

考えたフリするな
 グローバル化に関しては現地化を柱に韓国、台湾、中国などで積極的に推進している。当然、出て行くリスクはあるが、出て行かないリスクもある。現地で装置を組むとそこで技能なり技術が大きくレベルアップする。すると、顧客へのアフターサービスの技量が格段に向上するし、タイムリーに現地対応できる。このスピードを重視している。

 スピードある決断ということでは、私もしょっちゅう中村会長から「考えたフリするな」と叱られている。「何の根拠もなく迷っているだけだろう」というわけだ。アルバックでは開発を失敗してもその責を問わない。「われわれは誰もやってない新しいことをやる。だから失敗もする。それは構わない。だが躊躇はするな。やるなら早くやれ」というのが会長の持論だ。

 開発に関しては社内にスパッタリング、ODF(液晶滴下工法)、銅合金プロセスなど100以上の分科会があり、4〜5人から20〜30人規模のものまでさまざまだが、新入社員から折々には会長、社長も参加しチームとして洗いざらいを討議する。「チームアルバック」として常に世界との競争に一丸となって挑む姿勢がそこで形成される。

 またアルバックは「選択と集中をしない」と公言している。技術は継続性のあるもので、ある日突然何もないところから生まれるものではない。しかし10年前には全然役に立たなかったものが、ある日有効な手段として浮上してくることがある。そういうものを大事にしていく必要があると考えている。その結果、技術企画委員会で審議されて予算や開発方針が承認される開発アイテムは、年間400件以上にのぼる。

(聞き手:甲斐 真一郎)



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